日常という命題
今日は疲れたので書くことがあるような無いような。でも書きます。
ネットで「涼宮ハルヒは同人に向かない」みたいな記述が幾つかあったので*1それについて考えてみました。そこで述べられた要点としては、ハルヒは1人称視点で描かれる作品であり、キャラクタに対する日常のディテイルが少なく、且つキャラ設定に謎が多いことから読者の想像が入り込めるスキあるいは余地があまり無い、ということが主だったと思います。微妙にうろ覚えですが(笑)
アニメとマンガのみで原作未読者が述べるのもなんですが、一般論としては確かに納得できます。また、それを読んで私が真っ先に思い浮べたのが西尾維新の戯言シリーズ。戯言シリーズもまた上記の条件を全て満たしています。重要なのはキャラクタがいくら魅力的で個性的でも、その彼または彼女の日常及び彼らと別のキャラクタとの(日常における)掛け合いを想像できるか否かが、読者及び二次創作側の視点であることだと思います。当然ながらここでのキーワードは「日常」です。ハルヒも戯言シリーズもキャラクタに日常という生活感がまるで感じられないのは語り手が1人称だからだけではなく、その1人称である主人公でさえ日常が感じられないところに問題があります。
もう少し具体的に例えると、どちらも年中非日常なイベントが起きっぱなしであるということです。私が見たサイトでは同人に向かないハルヒの対比として同人に向く「マリみて*2」が挙げられていましたが、私が思うに、マリみてはイベントが起きてもそれは必ず日常の延長、すなわち学校生活であったり友達との付き合いであったり、決して日常の域をはみ出すものでは無いということであり、勿論キャラクタも一般人で、個性的ではあっても奇抜ではないことがポイントです。……話を戻すと、非日常なイベントに埋もれることでキャラクタは一層個性を際立たせ、益々日常から切り離されるという循環が形成されることになります。
更に問題なのは日常世界に侵食する非日常世界という舞台設定です。剣と魔法などという根本的に異世界ならいっそ問題は無いのですが、我々が住む一般世界(日常)を舞台にしたフィクション(非日常)というのはどうしても世界設定に齟齬が出てきます。これは日常のディテイルに関わります。
舞台が日常であるにもかかわらず非日常しか起こらない世界。それがハルヒと戯言シリーズに共通する命題でしょうか。がんばれ同人作家。あ、エロは別ですよ?(笑)
……久しぶりに真面目なことを書いてしまいました。