悲しい目をしたマユゲ犬2.0

音楽制作・読書・ゲーム・時々マジック


オリジナル・アレンジ楽曲をpixiv BOOTHで販売中。

音楽と向き合う

久しぶりにこのカテゴリ。まあ、とりとめのないことをとりとめもなく書いてみます。
音楽を自分で作り始めてからというもの、音楽との向き合い方が知らず少し変わって戸惑い気味に。元々聴く側であり演奏する側でもあったわけですが、最近作り手側に回ったところ、普通に音楽を聴くだけでもどうしても分析的に捉えてしまい、なんというか、右脳で聴けないなあという感じ。語彙が貧弱なのでうまく表せないのですが。
音楽って、本来は先入観もなんも考えず頭を空っぽにして、流れてくる音の波へダイブし、そこで作り手の表現したいことを真っ向から感じ・受け止め、その心象(情景)へと没入あるいは昇華させて楽しむ、受動的であり聞き手の能動性も喚起される、極めて高度で知的、実に楽しい媒体だと思っているのですが、ともすると受け手は勝手なフィルターをかけてしまうし、作り手はひとりよがりを押しつけがましく発信してしまいがちであり、ここに両者の溝はいっそう深まり、永遠の平行線が形成される恐れもあるので、両者を繋ぐ音楽そのものがある程度フレキシブルかつコンパチブルでなければ伝達度合いは変わってくるわけです。聴き手から作り手へ、両者の立場をこうして理解した上で音楽という無形物を作ろうとすると、閉塞感に極めて苛まれることが時々あるのですね。
これを解消するべき方法はただひとつで、聴き手の立場というものを(ある程度)無視すること。つまり表現したいことを臆することなく盛大にぶちまけることが作り手側の解決法だと思うのです。ただし前述の通り、ひとりよがりは良くない。それを律するのは音楽学という学問の鉄則と、偉大な先人たちの作り上げた結晶群。ここがミソで、私は音楽には裏口入学で入ったようなものですから、だからこそ分析こそが私の命綱であり、今後も手放してはいけない大事な約束事になります。
……ああ、そこが私の感じる閉塞感と繋がるんだろうなあ。自分で作った音楽というものをうまく律することが出来ていないからこそ、今正に形成されつつある私の音楽軸がジャイロの如くぶれぶれぶれまくるわけか。
なるほど、こうして言葉にしてなんとなく理解しました。うん、とりあえず自己解決。いや、根本的な解決ではありませんが。
なんでこんなこと思いつつあるのかというと、EDIROL(by Roland)「第20回力作コンテスト」の一般投票特別賞部門に何の間違いかノミネートされちゃったりしたものですから。(上から10番目です)
数ある作品の中から審査を通過したということは私の作った音楽が一定の評価を受けたことに他ならないのですが、それが私の表現したい思惑通りに伝わっているかどうかはまた別の問題であり、そこはもう既に聴き手にバトンが渡されているので、後の問題は私が悩むべきところでないのは理解しているんですが、どうしても落ち着きません。自分は表現したいものを詰め込んだと確信していても、それが原型通り伝達されるかというとまずないでしょうから私の懊悩は無意味なんですけど、それでもね……。
結論。待て、而して希望せよ!ということで。(そんなオチか)