最近のログ抜粋
初音ミクのCD発売について思うことがあったのでログ記載。一部ログが何故か消えましたが、同様の文をなんとか復元。
初音ミクに関して思うこと(というより私が思う争点)はただ1つ、楽器に人格を持たせることの可否、そこに尽きる。それ以上でもそれ以下でもない。私は前者の見解。
単なるシンセの一種と捉えるか、人格を持った疑似ボーカルとして捉えるか、その点を明確にしないと、幾ら議論しても感情論で平行線を辿るだけだと思う。
01:12 シンセのピアノを曲で使ったからピアニスト(=人間)のお株が奪われた、とは今や誰も思わないだろうけど、ミクに関してはこの論法が頻繁に使われる。どうしてそこまで人格を持たせたがるのか不思議だ。言葉を操ることは、そこまで神聖化するかのような現象かな。画期的であることは間違いないけど。
01:17 シンセやサンプラー系音源が急激にリアルになって実際の楽器演奏と錯覚するほどに成長した。換言すればそれだけ人間の生演奏の領域を侵してきているにもかかわらず、それに気付かないままボーカロイドだけを楽器として扱わず人格を持たせることに違和感を覚える。
01:18 「人格を持たせる」ではないな、「人格を持たせたがる」かな。
あるいは、気付いているにもかかわらずボカロだけを盲目的に特別視している、か。
以上を踏まえて追記。昨今のミクムーブメントについて「キャラクターグッズ」という捉え方を読んだ。ある側面ではその視点は正しいと思うけど、別の側面もあるように感じる。ボーカロイドの存在論は単純な一枚岩ではない。ただし、その論点は常に楽器の人格化という部分に絞られる(はずだ)けど。
楽器という存在は、当然ながら主体はあくまで楽器という商品・無機物であり、また人間が表現を操るための「道具」であり、そこには人格はおろか擬人化した存在もなく、それ単体で万人に(と言っても差し支えないだろう)スター性を持たせることは難しいが、初音ミクを含むボーカロイドは楽器でありながら人格を持たせられた特殊性を内包している(あるいはさせられている)から、議論の祭に色々ややこしくなる。
某増田にツッコミ所満載のミク論があったが、あれらは上記の定義を曖昧にしたまま感情的な印象を論じただけで、全くのムダな文だった。論点はそこではない。言及すべきは、何度も書くが、ボカロに対し盲目的に人格を持たせたがることの違和感だと思う。